【 注 意 】
・タナッセ愛情B後
・タナッセ視点三人称、とんでけ
ミルクセーキの日々
きつく目を閉じて軽く頭を振る。
あてがった右手が熱を覚え、けれどタナッセは羽筆を紙に走らせ始めた。休憩には些か早い。眼球は鈍重な動きとその熱さで疲労を訴えてはくるものの、今行なっている単調な署名作業は侍従が声を掛ける頃に終わるはずだ。半端にするより区切りをつけてしまいたいという性分だった。
だが、同室の人間の衣擦れの音が羽筆を滑らせる指を止める。顔を上げると先日彼の妻になったばかりの女性が、自身の机とタナッセの机の丁度中間にいた。
「……どうした、何かあったか」
彼女は彼の真横で足を止め、小首を傾げる。
何かというか、その、目が疲れているのだろうか。
少し腰をかがめ、手を持ち上げて。顔でも触りたげな風情の彼女にタナッセは肯いた。特に隠し立てすることでもない。ただ、席をわざわざ立っての問いなのだと思えば、
「まあ、多少な」
と、付け加えてもしまう。無論、瞳を揺らめかせる彼女への気遣いだ。けれど、多少という割にはかなり怖い顔をしていたようだけど、と不満気な顔が唇を尖らせる。
「悪かったな、元々そういう顔だ」
嘘ではない。城では散々言われてきたことなのだから。しかし彼女には首肯しがたかったらしく、尖らせていた唇を引き結んで首を横に振られた。表情が一々子供っぽいなとタナッセが頬を綻ばせる。この、城ではまずお目にかかれなかった莫迦正直な在り方が彼女の良いところだ。
彼女は不意を突かれた表情で忙しない瞬きを繰り返して、怒ってるの顔だったのに私、と呟く。それからタナッセに一つのお願いをしてきた。呟き声との繋がりからして、と、断る。
「駄目だ。仕返しでもする気だろう」
そんなのしない、と声の下から彼女はぴしゃりとやった。向けられるのは哀しげな半眼で、心外とすらぼやかれる。己の失言にタナッセは僅かな間凍りつくが、
「あー……わ、分かった。大人しく目を閉じていればいいんだな、ほら」
彼女の願い通りにすることを謝罪の代わりにした。
暗闇の中、微かな衣擦れの音だけがある。次いで、軽い圧迫が肩にかかった。おそらく彼女の手だろう感触は少しだけタナッセを彼女が居ると思しき方へ向けて、左右のまぶたにあたたかなものを一度ずつ落としていった。
熱に似た衝撃がタナッセの全身を走り抜ける。
そして、走り抜けた衝撃で身を後方に引き反らし、
「……っ!」
椅子の背と衝突し合う。
大丈夫? だいじょうぶ?と事故の原因が慌て焦る声色を上げたので、詰まった息を意地で復帰させ肯定した。原因は彼女にあるが、いい加減夫婦となったのだからこの程度の接触で過敏に反応する自分のほうが余程問題だと考えたからだ。というか常に反省点だからだ。彼女はよく頬は染めるし恥ずかしがりもするが、積極的だし無様に取り乱さない。
効果などあるわけもない口づけを、だからタナッセはふざけた行為と捉えることはせず、泣きそうにも映る困り顔に一つだけ告げた。
「――早いが、茶の時間にするか」
際限なく下がってしまっている彼女の眉毛は軽く眉間に寄った。けれど、すぐに大きく弧を描く。揺れていた瞳はタナッセを映して宝石の輝きを得て、うん、と弾む声が何度も首を縦にした。今日は天気がいいから中庭はどうかと提案もしてくる。
中庭。それがあるからこそこの邸を選んだ、妻のためだけの小さな自然だ。目にした彼女は大層喜び、空が晴れ渡り風も穏やかな日などはそちらで昼食を摂ることもあって、全くタナッセの想定を上回る反応だった。
とはいえ、小休止程度ではさすがに出向いたことはない。彼女はおそらく常より長く彼を休ませる気でいるのだろう。新米領主とその妻に仕事は山と重なっているのに、とタナッセは呆れもするが水を指す気はまるでなく、あぁと肯き肩をすくめるに留めた。
何しろ。
目の疲労を意識の彼方へ追いやるほどに、彼女の全てが有り難かったので。
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6月にアップする予定だったネタその1。