いわゆるフリーゲームに関する感想や二次創作メインに投稿しています(2015年現在)。取り扱い作品:『冠を持つ神の手』

2013年2月26日火曜日

【かもかてSS】SUB ROSA(2/4)

続き物注意。

1/4【前編】▼2/4【後編】/▼3/4【後日談】/▼4/4後記







 【アリス/Under Ground】


 二人の寵愛者が年を二桁に乗せて一年経つと、それはつまりタナッセが未成年で居られる最後の年になった、ということだ。長らく義弟の影に隠れて品のない噂からは遠かったのに、王配争いの渦中にも否応なく引き戻されてしまうこととなった。
 ヴァイルはかねてより断然男だと宣言している。対してもう一人の寵愛者である義弟は言葉を濁している。昔は男になって母を助けていこうと決めていたのだが、と零されたことがあったものの、今どう思っているかには力なく首を振るだけだった。
 ともあれ、女性を選ぶのだろうと周囲から決めつけるような雰囲気がタナッセを包んでいる。人の未来を勝手に、それも他者を引き合いにした上で確定事項の如く話されるのは不快にも程があった。そんな時、かつて個人用に書写させた修辞学である著者ヤニエ伯爵へと心が飛ぶ。かように素晴らしい書を書き上げた伯爵に師事したいと長らくタナッセは考えていたが、鬱屈からかここしばらく思いが強まるばかりだ。
 しかし、城から離れたくないとも思っている。
 せめて従弟が成人し王位を継ぐまではと昔から考えているし、義弟は義弟で放っておけなさが初めての市の日から加速度的に増しているのだ。伯爵は若い女性と聞いた。急がねば死ぬという話ではないのだと最早何十回目かもしれない納得を、彼は自身に促すのだった。
 件の義弟はといえば、この頃髪を伸ばしていた。長かった試しが一度もない彼だからタナッセはてっきり義弟が女性を選択する気でいるのかと考えたが、ある時タナッセの私室で茶を飲みながら眉尻を下げ、しかし眉間には皺を寄せ、口元には笑みを刷いて言った。
 母がどんな人だったのか、思い出せないところがまた増えた。
 髪は長かったという。一人称は私で、口調は穏やかだった気がするという。顔は、似ていたのかどうかよく覚えていないという。想い出は更に遠いとも義弟は言った。
 光をたっぷりと含んでつややかな彼の黒髪は後ろで緩く結わえてあり、既にタナッセやヴァイルよりも従兄ユリリエの長さに近しい。よく手入れをされていて毛先は内向きに甘く丸まっている。ただ、伏し気味な瞳を縁取るのは相も変わらず伏し気味に長い睫毛だ。憂色が似合いすぎてタナッセは言葉に詰まる。ようやく言えたのは、常以上にやくたいもない言葉だった。
「お前はきっとお前の母上似だ。私は、そう思うぞ」
 文節ごとに途切れるようなそれは、お為ごかしでしかない慰めだ。
 なのに義弟は、
「うん。……うん」
 透明を頬に伝わせながら、身を縮めるような仕草ではっきり笑った。
 二度目の泣き顔だった。
 その日から彼は自分を僕と示すことをやめた。代わりとなったのは、みっつの音。大切そうに、大事そうに、義弟はたったの三音を口にする。





 【知識の王国/Daath,Malchut】

 結論から言うと、タナッセは男性を選択した。
 貴族たちからの突き上げは鬱陶しいにも程があり、また、別段確固たる意志をもって女になると言ったものでもなかったため、一度儀式を行ったあとやり直したのだ。要因は他にもあったが、宣言を翻した自分に後悔はないとタナッセは思っている。
 ただ、篭り明けに再会した義弟が微苦笑しながらその性で良かったのかと問うてきた記憶は、やけに鮮明に残ってもいる。義弟は確かに一度、タナッセは武芸より書や詩歌が好きだからきっと女の人になるんだろうと感情の薄い顔で口にしたが、その時同様声音だけは雄弁に感情を物語っていたからかもしれない。何かこらえるように苦しげだった。
 従弟の方は、どうも不機嫌らしい態度をタナッセ相手へ取ることが増え、言葉遣いも随分と生意気で乱暴なものに転じてしまっていたが、こちらも原因不明である。
 御前試合でも義弟の制止を振り切って前座扱いの対決をさせられた。武術の学習は打ち切ることにしたぐらい、見事に押し負けた。
 だが、つい数日前のことだ。
 見かねたらしい義弟がヴァイルと長い時間話をしてからは不機嫌に関してだけだが軟化してきた。軟化だけで、元のように手を繋いでくることはなくなったし刺々しい物言いも飽くまで薄らいだだけだが、胃の痛さは軽減した。
 詳細な内容については極秘としながら二人が言うところによると、史上初になる複数寵愛者として将来に関する話を公私含めて行った、らしい。
 客室の一つを半日近く占有した義弟たちは、様子を伺いに行ったタナッセの前に疲労を全身に纏いながらも清々した表情で出てきた。……衣服や頭髪が乱れていた辺り、取っ組み合いぐらいはしたのかもしれない。なのだが、こざっぱりした様子で肯きあっていた二人の間の空気は、今まであった兄弟的なものから友人を思わせる対等さがはっきり伝わってきた。タナッセは酷く困ったものだ。
 以降、従弟はタナッセへの当たりの冷たさ以外はずっと落ち着いてしまっている。
 荒い口調も親しい間柄に対してだけになり、我儘も同様。あんなに子供こどもしていたのに、と戸惑いの気配が侍従たちからも立ち上っている程、今までのヴァイルを知る者からすれば王候補らしい雰囲気を見せるようになったのだ。もしかすれば、タナッセへの冷ややかさもいずれは解消されてしまうのかもしれない。
 しかし、問題は別の場所に残った。
 いや――問題、というには軽微な変化だ。従弟の一件に比べれば些細な、いっそ歓迎しても構わないだろう事態が義弟に起きた。
 そう、義弟だ。もう一人の寵愛者はリリアノの養子となって、タナッセを義兄とした。今までがおかしかったとも言える。にも関わらず、
「……兄様?」
 中庭の長椅子に腰掛けていたタナッセに声を掛けてきた、義弟の呼びかけに据わりの悪さが否めない。
 嬉しそうに頬を朱にして隣に座る彼は、タナッセの名を呼び捨てることをやめたのだ。あれは、ヴァイルと戦わされた御前試合の次の日だった。よく覚えている。衝撃だったからだ。突然どうしたと尋ねれば、私の兄さんなのは本当は嫌なのだろうかと返された。あるわけもないので声の下から否定して、今に至る。
 嫌なわけがない。あるはずもない。
 分からないだけだ。
 これまで義弟の不明な部分は多数あった。なのに、胸に凝る何かが溜まった謎は、初めてだった。視線は昔と変わるところがないというのに、どころか最近では形容しがたいほどの真剣さで見つめてくるのに。紅潮しやすい頬や、もの言いたげな唇も、ここ一、二年で起きた義弟の変化ではあったが、それらは理由は知れずとも不快など感じようもないのに。
 嘆息はこらえ、タナッセは用事を聞く。
 義弟は首を振り、通りがかったから声を掛けてしまっただけだと微苦笑した。首を動かすと、低い襟の奥にあるタナッセがかつて巻いてやったチョーカーが微かに目に入る。物持ちがいいなどと言う話ではない。
 授業の合間の休憩時間だったらしい義弟は軽く会話をしたあと去ってしまったが、首を彩る褪せた緑青色が頭から離れない。
 それしばらく経った昼間、アネキウスの輝きは夢へいざなう心地よさで、タナッセがいつも使っている中庭の長椅子をここが寝台とでも言いたげにあたためていた。詩想は途中で引っかかり進まず、いつしか無防備にも眠ってしまう。従兄にいいだけやられて懲りたはずだったが、気疲れが強かった。
 座りながらの、加えて気疲れからの睡眠は浅くも目覚めにくい。
 人が来た気配や全身に落ちる影を意識の遠くで感じながらも、それだけだ。
 両肩に小さな感覚を覚え、唇にしっとりと柔らかい感触が乗っても尚。
 彼が昼寝とも呼べない半端な眠りから起きたのは、だから別の要因だった。
 いつしか肩に掛かっていたあたたかな重みが滑ってタナッセの膝へ衝撃をもたらし、一気に現実へ引き戻される。膝上には一つに結った黒髪。義弟だった。
 驚きと急な覚醒への不快感から文句の一つも言ってやろうと肩を揺すってやれば、タナッセは義弟の肩の細さに息を呑む。男を選び、身長の差は確かに大きく開いたものだが、正直かようなまでに感触の差を覚えるとは想定しなかったためだ。ここ一、二年は青い顔の義弟と寝台を共にすることもなくなっている。膝に乗る頭も、存在感としての重みはあれど、退かしたいと感じる重量はまるでなかった。
 あどけない表情で目を閉じていた義弟を起こそうとした自分に対し、タナッセは罪悪感を覚える。だが後悔は遅く、喉を軽く鳴らしたあと膝上から高くも低くもない声が甘えるような舌足らずさで彼の名を呼んだ。兄様、ではなく、名前を。次いで、狭い長椅子の上で身を浅く丸め、すぐ伸びをして、
「…………」
 我に帰ったらしい表情が無言で飛び起きた。タナッセと目が合うと義弟は顔全体を真っ赤にしてうつむき加減になってしまう。上目でタナッセを窺いつつ、まくしたててきた。
 起きるまで待とうと思ったのだが気持ちよさそうだからでも眠ってしまったようで重かっただろうごめんなさい、というか私はどうして膝枕されてああいや頭痛いしもしかしてタナッセに倒れ込んで起こしてしまったのだろうかごめんなさい。
 火照りを抑えたいのか、義弟はその柔らかな輪郭に自身のてのひらをあてがうが、一向に赤が収まる様子はなかった。言い切り系の喋りを行う彼らしからぬ不確かな語尾も気になって、タナッセは落ち着けと細い肩に再度手を置く。と、弾かれたように顔が上がる。瞳は僅かに潤んでいた。幾度か義弟は瞬きをして言う。
 兄様、と。
 肩が痛いんだけどと続いたが力を入れた覚えはタナッセになく、半信半疑で小さい肩を掴んだ手を見やれば、言われたとおり衣服に皺寄せるほどの強さが籠もっていた。緩めると義弟は息をつき、邪魔したようだから行くと焦りを浮かべつつ立ち上がる。転ぶ。自身の足をタナッセの足に引っかけて長椅子に尻餅をついたのだ。
 謝罪と自嘲をしながら義弟は尻をさすりつつ、今度は気をつけて腰を上げ、若草色の木々の向こうに姿を消してしまう。彼が好んで使っている、柑橘系の甘酸っぱい香の匂いだけがほのかに漂っていた。

          *

 翌朝、タナッセは酷い目に遭った。
 主に、夜の夢の中で。一応は、起きてからも。
 生理現象の一種と片付けるにはまだ彼は若かく知識もなかったので、共に昼食を取りに来た義弟に羞恥から手酷い言葉で怒鳴りつけもしたが、彼は眉尻をこれ以上ないほど下げながらも子供っぽく頬を膨らませて拗ね食い下がってきた。筋の通らない撥ね付けであったから当然だ。だが、今日ばかりは無理だった。明日以降も怪しかった。
 駄目の一点張りにとうとう義弟は視線を足元にやって、そんなに昨日のことが嫌だったのかと弱々しい足取りで帰って行く。……胸が痛んだが、タナッセはかねてよりの考えを実行しようと、そう決めた。ただ時期を早めるだけだ。
 早速リリアノに掛け合い、彼は了承を得た。王からの手紙でさえも添削を行う修辞学の第一人者、ヤニエ伯爵への弟子入りを。
 王息殿下のディットン行きが知れ渡り、真っ先に反応があったのは従弟ヴァイルだった。彼は以前のように露台からタナッセの部屋を訪れ言い捨てた。
「最低。……さすがにあいつもとかさ、黙ってらんないんだけど」
 更にはユリリエまで――こちらは正規の手続きを踏んで応接室へ――やってきた。
「莫迦の面構えを拝みに来ただけよ。……どっちつかずの上、二人共を手酷く切り捨てるとは一体どんな顔かと思ったのだけど、成長も退行もしていないなんて、本当に愚かなのね、お莫迦さん」
 散々な言い様だ。そもそも意味が分からない。反論するタナッセを、ヴァイルは無言で、ユリリエは倍増しにコケにして、言い分など聞かないと去っていった。
 だが、最後にやってきたそのこどもは、義弟は。
 市で買い求めたという羽筆を持って、今のうちにきちんと挨拶をしたいと応接室の扉の前で小首を傾げた。勧めるとようやく椅子に腰を下ろす。
 急だったから驚いた、もう帰ってこないのか。
「いや……母上も言っていたように、今回は飽くまで留学、期間限定だ。一年で戻ってくる」
 兄様の詩はとてもいいと思っている。伯爵も気に入るだろうから案外永住となるかも知れない。
「世辞はいい、と言いたいが……その目は本気だな。お前は本当に分からん。私の詩を褒めることもそうだが、……とにかくお前のことは昔からよく分からない。今日もわざわざ贈り物など持ってきて、なんなのだろうな」
 遅れて立ち現れた二人目の印持ち。王座を目指さず、印を持たない王子に懐き、ランテの血筋三人目の寵愛者とも大層仲が良い。彼が現れたことに起因する波乱は貴族社会ではともかく家族の間にはなかった。義弟は何かあればヴァイルを慰め、タナッセを庇い、時には険悪にもなった二人の間を調停に駆け回りもした。
 なのに、先日は無防備に外で眠るわ、起こせば慌てて立ち上がって尻餅をつくわ、最早色褪せているチョーカーをいまだに巻いているわ、どうにもちぐはぐだとタナッセは感じる。彼は今日に至るまで、刃物という刃物が嫌いなままだ。テーブルナイフは躊躇わず手に取るようになったが、訓練所近くの回廊を通る時、視線が彷徨っているのをタナッセは知っている。儀礼用ナイフさえも嫌そうだし、昔は傷口から滲む血にも顔色をなくしていた。
 故に、
「こちらからも母上に定期連絡を行うつもりではあるが、何かあればお前も手紙を寄越せ。今までのように直接愚痴聞きは出来ぬ代わり……とするには心許ないだろうが」
 伝えると義弟は目を丸くする。沈んでいた黒曜石の瞳が途端に輝き出す。そして形容に困る音を口から数度漏らした後、言う。
 何故。いいのか。本当に構わないのか。この前からずっと食事を断られ部屋にも入れてくれないようになったから余程機嫌を損ねてしまったと思っていたのに、先程も理解出来ないと言われたし、なのに相談などして良いのだろうか。
 喜色と憂色を同時に全身に纏って、彼は細身を乗り出した。
 近づいた距離にタナッセの喉からも音ならぬ音が鳴ったが、離れて冷静になれば解決するはずであるという思いから申し出に肯く。軋むような自身の首の骨に滑稽を覚えて仕方なかった。





 【境界線上へと/reply:reply】

 国王直々の文も届いているはずなのだが、ディットンのヤニエ伯爵は一気負いなく弟子を取る気はないとタナッセに言ってのけた。とはいえ、唯々諾々と従うわけにはいかない。出てきた理由や出立の日、義弟と従弟に頑張れと後押しされた――ヴァイルは笑顔の義弟に釣られて言ってしまった様子だったが――こともあり、引くなどもってのほか。
 数週間の問答の末、更には半端な時期の留学理由の開陳など恥で穴に埋まりたくなる出来事を経て、表面上師弟関係に見える何かになった。
 義弟からの手紙は、大体二週間に一度程度やってくる。天候や道中での兎鹿の具合も関係して数日は前後した。
 丁寧な筆跡は自身の報告に加え、リリアノやヴァイル、果てはユリリエの様子も記して分厚い。彼の話題に泣き言の類は少なく、日々の他愛ない出来事がほとんどで、侍従頭だという彼を城に連れてきたローニカの名や、最も仲の良い側仕えというサニャの名が頻出した。
 彼の側仕えは少ない。侍従は当初の二人から徐々に増え、そのうち護衛もつくようにはなったものの、双方含めても今もって両手の数に満たないのだ。独特な立場のせいで選出に難儀しているとリリアノは零していたが、ともかく人数の少なさからか義弟は誰とも親しくしている。
 誘拐未遂の件もある。タナッセはあまり気を許したものではないと忠告に口を酸っぱくしたものだ。結果はあまり芳しくない。手紙によく上がる二人はタナッセが見ても義弟に仕事の範囲を超えてよく仕えているとはいえ、全てがそうとは言い切れないのに。
 そうして。
 ふと気付くとタナッセは合間あいまに義弟のことを考えている。
 距離を離した意味が薄い気もしたし手紙の遣り取りがまずいかと止めることも選択肢として浮かべたが、そんな文面を書いた手紙を前に彼が浮かべている表情はありありと想像出来てしまう。タナッセを庇う以外要領よく貴族生活をこなしているとは知らねば一笑にふすほどに頼りない表情が。断念した。
 ほとんど同じ場所を巡っているような思考を他所に、日々はつつがなく過ぎていく。
 あとふた月で留学期間も終わりという頃、タナッセは来ない手紙を待っていた。二週ごとに着いていたものが三週間経ってもやってこないとあっては、一体どれ程不測の事態が起きたのか、焦げ付く気持ちを抱える。
 思いあまって鳥文を飛ばした数日後、ようやく手元に待望のものがもたらされた。
 常より薄い封筒には、懐かしい筆跡でもって義弟の名が綴られている。懐かしい――初めて義弟にものを教えた日、彼がつたなく紙に書いていた文字列を思わせる筆跡だった。理由は単純。利き手を捻挫してしまったのだという。意地で手紙を書こうとしたら侍従頭ローニカに筆記用具を取り上げられ、余計に時間が掛かってしまった、と謝罪が記されていた。また無理をして、と苦笑したのも束の間、捻挫の原因にタナッセは顔をしかめた。
 眠っていると部屋に暗殺者がやってきた、とあったのだ。
 夜中だったので顔は分からないし逃げられてしまったようが、物音に気付いたローニカが助けてくれたと結ばれているものの、衝撃が全身を駆け抜ける。間の抜けた暗殺者だったから助かっただけだ。
 留学期間は残っている。
 あとふた月も、と言うことは出来たが、しかしあとふた月しか、と言い換えることも可能だ。タナッセはヤニエに早々に切り上げる旨を伝えると、翌々日には鹿車で帰途についていた。
 ――――今まで書いた詩を全ておいていけ。
 という一言に謎を感じつつも、今は不自然に明るかった最後の手紙のため、城に帰る。





 【夢を見る方法/civet citrus】


 半眼の義弟が目の前で唸っていた。
 どうしてくれよう、とか、私のせいか、だとか、しばらく頭を抱えていたが、
「その、だな。手首は……だいぶいいのか?」
 空気に惑ったタナッセが己でも外れていると苦くなる言葉を掛けると、相好を崩してすっかり平気だと波の動きを宙で再現する。すぐさま「違う……!」と首を振ってまた眼を細めてしまったが。
 久しぶりの私室で、やはり久しぶりに義弟と向かい合っているのだが、長いことこの状態が続いている。

          *

 タナッセが城へ戻ると義弟と従弟が待ち構えていた。
 しかし義弟は彼の姿を見るなり泣き出してしまい、ヴァイルと二人予想外の状況に慌てふためくことになった。泣き方がまた義弟らしからぬものだったこともある。眉は寄せられ目は閉じられて、下唇が僅かに突き出されていた上、顔は真っ赤。握り拳が何度も涙を拭い、喉からか細い泣き声を上げた。普通の子供の泣き方だ。
 ――それが、いっそ新鮮ですらあった。
 心中にこみあげてしまった感動はさておき、泣き止ませなければならない。真っ当な涙になれていないだろう、大きなしゃくりあげや嗚咽をうまく御せないため呼吸が碌々かなわないらしく、息苦しげに咳き込みだしてしまったのだ。なのにヴァイルは慰めなど不慣れで、タナッセも初の事態にまごついてしまう。
 なんとか頬の赤が薄らいできた頃には、頭も手足もしびれたと足をふらつかせ、タナッセへともたれかかってきた。そうしてまた慌ててしまったことや、結構な時間衛士たちの注目を浴び針のむしろだったことも手伝い、タナッセは気付くと義弟を横抱きにして彼の私室へ運んでいた。
 苦しげな義弟の顔を思えば後悔はないと言い切りたいが、それでも義弟の侍従頭ローニカから瞬間向けられた冷ややかな視線は痛かった。なので、行ってしまうのかと服を掴まれつつも、逃げるように自室の階へ逃げた。
 その日はそれで終わりだったのだ。
 けれど数日後、義弟はその日一日授業がないのをいいことに、朝早くタナッセの部屋に訪れた。
 大事な、大切な話があるから応接室ではなく私室へ通して欲しいと震えがちな声で懇願されれば飲まないわけにはいかない。しかし通してみれば半眼で唸りだした。腹が茶で膨れ始めた頃、義弟は長い黒髪を左右に勢いよく跳ねさせ何かを振り切りついに声を上げる。
 伝えたいことが、聞きたいことがあって来た。お願いがあって来た。――タナッセに。
 熟れた苺の頬から緊張が伝わってくる。タナッセは自然硬くなる表情筋を感じつつ言葉を待つ。
 思考の片隅で、呼称が戻った事実に気付きながら。
 タナッセのことが好きだ。愛している。昔からずっと。ヴァイルと良い噂があるから我慢しようとずっと努力して、兄さんなのだからと呼び方も変えて、ディットンでいい人を見つけても祝福しようと決めて堪えていたが、予定を早めて戻ってきてくれたことが嬉しくてたまらず気持ちが抑えておけなくなってしまった。胸が痛くて辛い。芽はあるのか、どうか教えてもらいたい。
 言ったきり黙りこくってしまう。
「だ……、」
 駄目だ、と思った。義弟は、このこどもはタナッセとは違う。
 周囲に皮肉と厭味を振りまき散々な評判の彼とは異なり、それなりの評価を受けている。
 しかし立場はなんとも不安定で、先日もどこぞの貴族から暗殺者が送り込まれたのに助かったのは偶然。護衛不足が過ぎて、守れたとは言えない有様だ。幼い彼を思って母リリアノは養子としたが、義弟はランテ派から遠く、反ランテ派は言わずもがな。そこで人望も人脈も有りはしないタナッセなどと婚姻関係を結んでも守りきれない。
 大体彼の額には印が。
 ランテからは三人もの印持ちが立て続けに出て。
「今のが」
 数呼吸のあと、こどもの、張りつめた弦楽器の響きが言葉を続けた。
 今のが伝えたいことで、お願いはまだある。振るなら何か余所事を交えた理由はやめてもらいたい。ただタナッセの感情が私に向いているか否か、単純にそれだけで答えて欲しい。子供がこわいなら、出来るようなことはしなくて構わないし、一時でも共に居られるなら、殺されてしまってもいいとすら思っている。それぐらい、そう考えてしまうぐらい、どうしようもなく好きで好きで仕方がない。何年も前からだ。だから、理性も理屈も横に置いて、感情だけを見せて欲しい。
「待て。無理だぞ、それは。立場を考えろ。自分の命を、大切に扱え。第一――第一、お前が死ぬ可能性を……」
 冷えたものが背筋を走る。耐えきれず、タナッセは声を荒げた。
「死ぬ可能性を、どうやって! どうやって私に見逃せと言うんだ貴様は!!」
 大声に怯えた様子でこどもは身を竦めたが、気持ちはなかなか収まらない。タナッセは髪をかき上げ、それでも足らないと頭を掻きむしった。憤懣やるかたない彼に、場違いに嬉しげな声音が呟いた。
 死ぬのが嫌なくらいには、タナッセは私を好きと思ってくれているのだろうか。
 莫迦か、とタナッセが気付くと瞑っていた目を開けると、上目のこどもが自身の首元に触れていた。
「まさかお前、まだあの……古いチョーカーをつけていると言うんじゃなかろうな」
「え」
 つけている、とはにかみながら返事があった。初めてタナッセと市を見た日に買った宝物だから洗う時や沐浴の時しか外さない、色味もタナッセが好きそうなもので気に入っているから、とも。
 タナッセの顔面が一瞬で熱を帯びる。言うこどもの表情は、幸せに蕩けていた。
 莫迦か、と。
 先程と正逆の想いで表面上は同じ言葉をぼやく。
 なんだこれは、とも零れる。
 タナッセは、あの日見た夢の中、やけに生々しかった柔らかくあたたかで小さな唇の感触から逃げて、ディットンで一年近くの留学をしたはずだ。なのに終えてみれば状況に大差がない。むしろ、より追い詰められた。酷い状況だ。
 だが今度は逃げ場などなかった。ここまで言い募られて――ぶちまけさせておいて逃げるような下衆な人間でありたくなどはないのだ。それにしても、気になることが一つある。
「……その。お前はいつからだ。いつから、私を……好きだなどと思うようになった」
「ほとんど一目惚れ」
 即答だった。短い答えだった。短さの中に溢れるんばかりの感情が感じられる程、抑揚と情感が込められている吐息でもあった。
 おかげで気になってしまう。もし、もしも、だ。タナッセに一つまみ分すら恋愛としての感情はないと切り捨てたら、こどもはどうなってしまうのか。どうするつもりなのか。
 やはり、答えはあっさり返る。今度の声音は淡々と。
 ヴァイルのためになりそうな相手を選んで結婚する。本来は、そうするつもりだったのだから、大丈夫、そうなってもやっていける。私が出来るとあなたは知っているだろう。
 上目だった瞳はいつも通りの伏し気味になる。存外長い睫毛が影を作った。性別はどうするか分からないと、確かにこどもは以前言ってはいたが……もしや、理由はそれなのか。
「――――」
 圧倒的な稚気と、対照的な老成。タナッセは目がくらみそうだった。明らかに、こどもの幸せはタナッセの返事如何に因っている。だが胃の痛みはない。あるのは、二つの懸念。こどもを守りきれるのか否かと、こどもが現在義理とはいえ弟である現状への。
 全く、たまらない。
 笑いたくなる酷い状況だ。
 タナッセはずっと政治にまつわる勉学から遠ざかってきた。今から詰め込むとなると、相応の苦労を覚悟せねばならないし、断り続けてきた領地の割譲も逆に国王へ頼みに行かねばならないではないか。城暮らしではまたいつ同じ問題が起きるか。まだフィアカントを離れた方が守りやすいだろう。またぞろ貴族どもに悪意を持って叩かれることになるのは業腹だったが仕方ない。
 名前を呼ぶ。タナッセは、回避出来ないほど真っ直ぐ愛情をぶつけてきたこどもの名を口にした。
「新しいものを買うぞ。いつまでも色褪せたぼろの装飾など使うのはやめておけ。――市の品なんぞ変わり映えしないのだからな、行けばどうせ同じような色の同じような見目のものがあるだろう」
「?」
 疑問符を顔中に浮かべるこどもにもどかしい気持ちを覚えつつ、タナッセはもう少しだけ分かりやすく、言葉を紡いだ。
「つまり、だ。……これからいくらでも、何度でも買えば……いや、買ってやるからと、私は言いたいのであって……」
 しまらなかった。
 けれど。
「――あ」
 こどもは段々表情を変えていく。潤んだ瞳が笑みに細くなり、唇がわなないた。そして突然立ち上がると対面のタナッセの脇にやってきて、抱きついた。甘酸っぱい香りを漂わせながら要求してくる。私が思っているとおりの返事だと考えていいのなら、舞い上がって構わないなら、口づけして欲しい、と。
 さすがに無茶だと反射で言い返すも、もじもじとこどもは耳まで熱に染め上げて言った。
 謝らなければならないことがある。実は、眠っているタナッセに以前口づけしてしまっている。でも、だからまあ、一度私からしてしまったのだし問題はないと思う。うん、大丈夫。
「なっ――」
 絶句する。夢自体はともかく、重なった唇の感触自体は妄想ではなくただの再現だったのか、と、頭の中では呆然する自分と腑に落ちたと考える自分が共に存在していた。
 葛藤は、あった。後押しされても尚かつ捨てられなかった。
 だが、タナッセは吐息も感じる距離に抗えず、こどもの言葉を言い訳にする。こどもの熱い頬に両手を添え、身をよじり、あたたかく柔らかく、ふっくらした淡紅色に唇を寄せた。接触だけのつたない触れ合いを、しばし味わった。こどもの体温は高めだったが、混ざる。
 離れるとこどもは陶然と、鼻に掛かった一音を零してから呟いた。
 タナッセ好みの女になるから、頑張るから、まだ少し待っていて。
 心臓が射貫かれた疑似感覚を覚えたぐらいに、こどもの言葉は甘いあまい蜜の声音だった。伏し気味の黒の睫毛がしどけない。きっと、こどもは美しく花開くだろう。夜露を湛えた花弁ほども瑞々しく。
 待ち遠しいな、と焦がれてしまう自分に対し、タナッセは苦笑したのだった。










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