いわゆるフリーゲームに関する感想や二次創作メインに投稿しています(2015年現在)。取り扱い作品:『冠を持つ神の手』

2013年3月25日月曜日

【かもかてSS】ネヴァンの歌声

【 注 意 】
・ヴァイル憎悪B+タナッセ愛情後
・どうにもならない状況かつろくでもない状況なので
 結論言うと一部成人向け
・ヴァイルとタナッセは
 関係険悪になってしまっているので
 御注意下さい
・三人称中心




ネヴァンの歌声



 【1】

 か細い声が一つの名を呼ぶ。
 常のことではあるが腹立ちはやまない。故に一層乱暴に後ろから突き上げては引き抜き、か細い声を上げた女性の敷布を掻きむしる指がこれ以上ないほど白くなる。こうして彼女の頼りない肉体を反応させているのは他ならぬ彼、ヴァイルであるというのに、彼女の心が恋うのは今ここにはいない男だ。
 また、彼女はその男の名を口にする。救いを求める。ヴァイルの名は拒絶のためにしか呼ばないものを、たすけてと言う。夜ごとの情事に肉体は爛れきっているというのに。腹立ちを紛らわせるため、けれど悲鳴など聞きたくもないと苦痛と快楽を共に味わわせてやれば、肉体は感覚を錯誤したのかいつしか乱暴な扱いにも蜜を零すようになった。
 耳障りな音の羅列にヴァイルが自身を引き抜く。彼女の中は引き留めるような動きをしたが、振り向いた顔は安堵が浮かんでいる。ヴァイル、と力ない声が続く。
 そう、篭りを終えた彼女の声からは張りが薄れていた。彼女が幾度も口にする男のせいで崩れた体調のまま、しかもヴァイルとの決闘で怪我を負って、分化などに耐えたせいだろうか。よく通ることに代わりはないが、響きは不安定になった。身体も、身長は子供の頃から変わらぬままで、骨などいっそ細くなった気すらする。脆い身体は不調もよく訴える。今日も朝から熱があると聞いているし、実際肌身も粘膜も触れる前から熱かった。
 熱い身体を抱えた、かつて半身であれと望んだもう一人の寵愛者は小首を傾げてもう一度ヴァイルの名を呼んだ。そして言う。やめてくれるのか、と。昏い思いが胸に満ち、彼女の小さな頭を敷布に押しつけた。黒の長い髪が白に広がる。色を取り戻した指先がまた白に皺を寄せ、悲痛な甘い声音が部屋を満たした。

          /*

 昔、決して彼が名を呼ばない相手があった。
 名前を呼ぶことすら厭わしいと感じ、お前だとか、貴様だとか、個としての存在を認めない呼称を用いていたこどもが、いた。
 しかし、ある大きな事件を契機として関係が転じた。こどもが彼の名を呼ぶ面映ゆさに、彼の、タナッセの方から応えるにはしばらくかかる。ようよう音に出来たこどもの名は、響きだけで舌に甘さを残した。
 なのにこどもはタナッセの傍にいない。塔の高みに押し込まれ、しょっちゅう医士が出入りしているという。――従弟も、ほとんど毎夜訪れていると聞く。彼のせいで調子を崩してしまったこどもはヴァイルとの決闘で敗北して深手を負ったまま篭りに入ってしまったのだ。こどもの、彼女の身を早くあの塔の一室から救い出してやりたい。タナッセは強く思って動いているが、芳しくはなかった。何しろ対するは三人目のランテの印持ち。掌握する人間は数多く、国王となった今では対抗勢力の動向は鈍い。肝心の従弟は彼と面会しようともしない。リリアノは辛うじてヴァイルの留守を狙い単身彼女に会ったようだが、随分と儚い存在感になってしまっていたという。お主を差し置いてすまなかったと謝られたが、隙を突いての行動を多人数で行うわけにはいかないと理性は重々承知していたから、感謝だけを彼は返した。
 タナッセが彼女に会えたのは、遠くから姿を見ることが出来たのは、一度だけ。
 正式な継承の儀の折、女性らしい曲線を得た小柄が継承権を放棄する旨を告げるために姿を現したのだ。大きく開いた襟ぐりを彩る、首にしつこいぐらい幾度も巻かれた蝶結びのリボンが目に焼き付いて離れない。ヴァイルの纏う、一国の主らしい豪奢な衣装の生地と、おそらくは共布であろうそれが。
 伏し気味の瞳の奥、黒の色は不安に揺れて見えて胸が痛かった。あれのことを守るとタナッセは決めていたのに、何故遠くで突っ立っているだけなのか。
 そうして今も。
 彼は彼女の部屋へ続く階段を睨み付けているだけだった。階段は、一歩たりとも上ることが叶わないのだ。警護の衛士が誰をも立ち入れない。こうして眼前に立っている程度ならタナッセに視線を向けることすらしないが、あと数歩進めば控えているモル共々捕らえられるだろう。
 彼女に会えなくなって一年以上が経つ。原因を作ったのは他ならぬ彼女で、昔は従弟を傷つけたものとして憎悪すら感じたものが、彼女という存在に触れてしまえば最早そんなことは思えなくなっていた。彼女にもそれまでの十四年の人生がある。タナッセも従弟も知らない十四年の経験が、あるのだ。
 従弟にとって、連れ出した湖上での拒否やその後の彼女の行動が傷を掻きむしるものだったのなら、彼女にとっても従弟の約束を受け入れられない理由も、約束を断って尚、愛はあるのだと伝えるだけの理由もあったはずだ。
 理由も、彼女の元へ行けたなら、尋ねることが出来るのに。
 あの日の華奢な立ち姿を見ていた母ですら儚くなった評する彼女のことが、心配で堪らなかった。大人びて気の強かったこどもは存外あどけなく、一度心を開いた相手には無防備に過ぎる。すっかりすれきった印象だったのに、恐ろしいほど幼い顔がそこにはあった。弱った身体を抱え、毎夜の仕打ちに果たしてどこまで耐えられるのか、タナッセにはまるで分からない。……ヴァイルがどれ程の行いに至るかも。いくら彼女を憎んでいたとはいえ、閉じ込めるまでするなど誰も予想だにしていなかったのだから、楽観的では居られない。
 階段の上を、タナッセは睨み付ける。睨むように見上げる。腹立たしい話だ。あの日彼と共にこどもを傷つけた男の手を借りたいと思うなど。
 決して部屋から出られない細身を目に出来る可能性が万に一つ以下でもあるのは、露台だ。タナッセは時折こちらにも訪れている。王になれれば王配として所領持ちの方が何かと利点があり、なれなければ城にも村にも居場所のない彼女と共に引っ込むつもりだったため、彼は狭いながら上等な土地を拝領していた。仕事と彼女を助け出すための根回しで忙しい。少ない可能性に賭けるという感傷に割ける時間は、少ないのだ。
 そう、感傷だ。
 期待などとうになかった。
 だが、ふらつく歩みがその日奥からやってきた。
 タナッセの婚約者である彼女が、ただ一人で露台の手すりに白い手を乗せ、身を乗り出すように周囲を見回している。久しくの部屋の外に喜ぶ様子はない。探しものをしているように、見えた。
 タナッセは、一歩を踏み出す。木々に身を隠すことをやめ、彼女の視界に入りやすくする。声を上げる余裕などなかった。手を挙げる余裕も。忙しなく動かされる頭はすぐに彼を見つけ、泣き出しそうだった表情を心底からの笑顔に変えた。そうして名を呼ぶ。細く、なのに通る声音で。陽光の下、一回り小さくなった錯覚をする痩せすぎの、それでも女性としての柔らかを持った身体が着ているのは、継承の儀と同じように胸のふくらみの大半が露出して身に添ったドレス。首を飾るのも、今日ヴァイルが纏う衣服と同じ色。どろりとした重いものが胃や腹に溜まる不快を覚えながら、けれど何より彼女の姿を見られたことが、彼女がタナッセに気が付いたことが、甚だしいまでの歓喜を引き起こした。
 全く、リリアノの表現は全く的を射ている。品がないドレスを着せられながらも、彼女から受けるのは肉感的な媚態ではなく、あえかな色香だ。
 甘えるような声がタナッセの名を幾度も呼ぶ。
 もっと近くに行きたいと、逢いたかったと、そして、たすけてと。
 振り絞るように求めてくる。立っているのも声を上げるのも辛いのか、ほとんど手すりに抱きつくような様でタナッセを真っ直ぐ見つめて。
 タナッセは唇を噛み締めた。ここまで弱っているなどとは。誰か彼女を寝かせてやって欲しい。叶うなら彼自身が寝台に身を横たえさせたかったし、そもそも嫌な思い出しか詰まっていないだろう場所から連れ出してしまいたかった。だが、彼の背に羽はなく、魔術も使えず、塔の上の彼女を見上げるしか能がない。せめてと思い、声を掛ける。
 必ず、そこから出してやる。
 具体性を欠く一言。
 彼女はなのに肯いて、待っていると手を伸ばした。
 それを最後にタナッセはその場所を離れる。何故彼女が一人だけ――自殺も可能な場所に居られたのかは不明だが、何を理由にしているにせよ長居は得策ではない。
 翌日、彼女付きの侍従の一人が免職させられたと耳に入った。かなり彼女に入れ込んでいた初老の女性だったという。



 【2】

 ごめんなさいと、彼女はヴァイルに身を竦めながら謝った。
 別段謝罪を求めて問うているわけではない。外に出たがるのではなく、タナッセに逢いたがる彼女が何故、露台になど出たのか。答えの分かりきった問いを、先程からしているだけだ。
 寝台に座るヴァイルの前に座らせた彼女の身を腕に捕らえながら、もう一度尋ねる。
 そんなにタナッセに逢いたかったんだ?
 私、と首を横に振りながら震える声が言葉を続ける。もうやめて、ごめんなさい、私が全部悪いとヴァイルは知っているはずだ、だからタナッセに酷いことはしないで、彼女にも酷いことをしないで。
 莫迦だなとヴァイルは腕の中、背を向けている身体に思う。人に何か交渉事を持ちかける手腕としては、下の下だった。一度は次代の王と任じられた存在とは、知らなければ微塵も思えない。癇に障ったので片手を彼女の身体の中心に滑り込ませ、触れる前から湿っている場所を二本の指で掻き回した。彼の扱いに慣れた肉体は悦び、一年以上経っても慣れない感情は拒絶を口にする。だから、言ってやる。
 大丈夫。あの女の解任は絶対だけど、殺したりしない。タナッセは鬱陶しいけど、あんたの気がおかしくなったら困るから殺せない。……嫌がらせはいくらでも出来るけどね。
 彼女は最後の一言に身を震わせ、けれどヴァイルの指が弱い部分を集中して刺激するから、口から漏れるのは嬌声だけだ。逃れようというもがくも、押さえ込まれていて身をよじる動きにしかならない。
 そうだな、と甘い声を響かせる彼女に続ける。
 あんたがこのまま俺のもので居続けるなら、なんにもしないでやるよ。
 本当は、彼女へそんな約束などしたくなかった。ヴァイルが喉から手が出るほど欲しかったものをたくさん持っているタナッセのことなど、最後の期待だったもう一人すら奪っていった従兄のことなど、最早なんの情もなく、ひたすらに憎いだけだ。元々何もかもを諦めていた相手だったが、一気に飛び越え今ではただいらないと、そう思う。
 同じように憎たらしい彼女は、手放せない。
 約束を断りながら愛など告白してきて。
 そのくせ、憎み合っていたタナッセと共になろうとして。
 一人自由になどさせてやるものか。
 一人幸せになどさせてやるものか。
 同じように、忌々しい印を額に貼り付けられているのだから。
 ヴァイルの中で呪詛めいた気持ちがとぐろを巻いている。
 だが。
 それなのに。
 ヴァイル、やめて、と。
 拒絶のためでも彼女が名前を呼ぶごとに、想ってしまう。未練がましい感情を、覚えてしまう。
 彼女が彼だった頃。
 彼女はヴァイルとおよそ対照的な評を貴族たちに下されていた。大人しく控えめなもう一人の方、と。清廉とも付くことがあった。人の想いを弄ぶ人間のどこがと、ヴァイルは嗤ってやりたくて、貴人とも思えないぐらいに胸の円やかを剥き出しにさせた品のない衣装を無理矢理着させて。にも関わらず、喚起されるのは淫らより哀れ。
 己の感情が彼自身不明だ。
 指を一本増やしたヴァイルへ、子供の時分ですら耳にしたことがないがんぜない声が届く。
 タナッセに逢いたい、どっちもいやだ。
 拒絶をする彼女は、しかしある一言だけは口に上らせたためしがない。
 ヴァイルなんて嫌い、とは。
 だから、取り敢えずはよしとしてやる気になった。
 初老の侍従とタナッセに関しては、だが。
 以前、留守をついて部屋にやってきた元国王については何も言われていない。彼が話題にしなかったためだと知ってはいたが、注意が足りていない彼女の問題なのだから、わざわざ指摘してやる必要などあるはずがなかった。

          *

 闇に溶ける疲れ切った声が、横たわる真白の喉から漏れている。
 前国王リリアノの国葬が今日執り行われたと、そう言ってやったのだ。高熱に苦しむ彼女はヴァイルから目を反らす。どうして、何故、と呟きながら。疑問は容易に切り捨てることが可能だ。嘘でも真実でもない言葉があるのだ。
 暗殺だって。伯母さん、恨み山ほど買ってたみたいだしね。
 違う。
 鋭い返しがあった。久しく耳にしていなかった強い響きは、言う。何故、わざわざ私に伝えるのか。ヴァイルの真意を尋ねているのだ。
 寝台に腰掛けたヴァイルは口の片端を持ち上げる。壊れつつあると感じていた彼女が、いまだ在りし日の面影を保持している事実に対し、満足を覚えたものだ。
 もうあんたの中では確定事項なんじゃないの? わざわざそんな言い回しするってことは、さ。
 彼が肩をすくめれば、この数日寝台を離れられない小さな彼女は投げやりに言った。
 今日もしないのか。しなくていいのか。
 返答の代わりにヴァイルは伯母の話をする。伯母が女性を選んだ訳を。昔リリアノは言っていた。自分の子供とされている存在が実の子であるか否かを疑りながら生きずに済むから女になったのだと。だが、それは伯母が身を守る術を複数持っていたためのことだ。
 意図を探る沈黙にある彼女の耳元に唇を寄せ、彼は囁く。
 ほら、あんたは寝込んでるか俺に遊ばれてるか――タナッセに迷惑を掛けるしか出来ない。
 彼女は目を開き一瞬眉を吊り上げ反論に大口を途中まで開いたものの、喉奥で音を引っかけたらしく、無様に引きつった一音を発しただけで終わった。瞳も半分伏せられてしまう。情けない反応にヴァイルは充足を得て、駄目押しをしてやろうと決めた。
 でも良かったじゃん。あんたは女だから、誰の子供を産むか疑わずに、悩まずに済むよ。
 彼女に付けた侍従も護衛も医士も全員女だ。
 初めのうち、ヴァイルの担当医である男を使ったことがあるが、期待した結果にはならなかったのでやめた。別の人間に目を向けている彼女を手っ取り早く打ち据えてやろうと考えたものだが、男は弱り切った身体に強い薬物がどんな効果を現すか判じ得ないと言ってきたのだ。だから彼は、毎夜地道にそれを行うしかなくなった。おかげで男の肉体への戸惑いも消化出来たものだし、思わぬ副産物として従兄が毎日のように感情を荒立てている様子を眺めることが出来たので、今では正解だったと言える。第一、苦痛と同義であろう淫蕩な時間へ意思に反して溺れてしまう彼女を見るのは気分が良い。
 長い睫毛を震わせる彼女の唇に自身の唇を寄せる。心を痛めてはいるが、唇を吸い熱で鋭敏になった肌を夜着の上から撫でさすれば、容易く艶めいた声を零し始めた。
 だが、同時に呼ぶのだ。
 タナッセの名を。



 【3】

 だるい。
 あつい。
 今日もまた、私は目覚めると苦しさを感じている。変わり映えしない毎日に日付感覚も薄く、この熱に浮かされた目覚めが一体何日目なのかさっぱり分からない。具合が悪い日自体も、多いし。
 でも、おかげで記憶は古くならない。タナッセと逢えたこと。機会を作ってくれた侍従が城から追い出されてしまったこと。……リリアノが、ヴァイルに殺されてしまったこと。良くないことばかりなのが、難だ。
 眩しい太陽に目を閉じて、思う。
 タナッセに会いたいなと思う。
 私のせいで母親が死んだのだ。もしかしたら罵倒されるかもしれないけれど、構わないから。謝りたいし。いや、駄目か。タナッセ、すごく人がいいから。大嫌いな人間をたすけてしまうぐらい人がいいから。負い目もある相手がそんなことをしたら、きっと怒れなくなってしまうだろう。
 ヴァイルは謝っても怒る。従兄弟同士というけど、性格は似てない。だってヴァイル、タナッセより分かりづらい形で屈折していて、考えなしの私は鈍感にも彼の一番嫌な踏みにじり方をしてしまった。
 監禁されている今、改めて彼を愛せば、それとも昔の彼になってくれるだろうか。……我ながら虫が良すぎる。薄汚い考えだ。
 そもそも、私の心はもうタナッセしか見えてない。出来もしないことを口走ったところでヴァイルを一層深く傷つけるだけ。
 けど、どうしても我慢が効かない時がある。
 どうしても、彼を傷つけてしまう時がある。
 厭だと思う気持ちと裏腹な反応を身体が返してしまう、あれだけは。こうして考えている私こそが自分だと思うのに身体は真逆だから、どっちが私か判断出来なくなって、とてもこわい。
 こわい。
 タナッセの耳に、きっとヴァイルと私がしている行為は届いてると思う。見ている第三者は居ないし、ヴァイルが口外するわけもないけれど、こんなにしょっちゅう夜にばかり来ているのだ。二人きりの部屋の中、何が行われているかは明白に過ぎる。
 お前のせいで、と怒られるのは仕方ない。本当だ。
 本当なのに、穢らわしいと思われるのは、こわい。
 出してやると言ってくれたあれは、確かリリアノが暗殺される前で。
 今、私のことなんか嫌いになっていて、後者の態度も取られる可能性があるんだ。彼の母親に手を下したのはヴァイルの手の者だ。でも、それは私が居なければ起こらなかったことでもある。
 違う、そんなことはないと、言う私の気配を感じたが、だるくてあつくてまとまらない思考が錯覚させただけにも感じる。……あれ、まとまってないんだ、私の考え。
 やめよう、もう一回眠ろう。
 まだ誰も起こしに来ないから、私の普段の起床時刻より早いのだと思うし。調子が悪いと思考も引きずられて駄目だ。まあ、調子がいい日なんて子供だった頃まで戻らないとないんだけども。
 倒れてばかりの原因を作った二人の顔を思い浮かべる。
 莫迦、と。
 思わずの呟きは、自分自身に対しての。
 あぁもう本当に、だるくてあつい。もういやだ。いやなのに。ごめんなさい。ヴァイル、タナッセ、リリアノ。本当に、もう。
 母さん。
 ごめん。

          /*

 謝ってはいないだろうかと、タナッセは頭痛を抱えながら思いを馳せる。
 先日、ヴァイルが公務の合間に呼びつけてきた。人払いをして何を言うかと身構えれば、彼女に言ったと眇で嗤う。
 気付いてると思うけど、伯母さん殺したの、誰の差し金か。
 タナッセはほぼ確定事項として従弟を考えていた。母リリアノも彼女を解放する気でタナッセに協力を惜しまずいてくれたのだ。母は責任を取るべきだと、因果応報の一種だと、言葉の端々に自分の命への諦観を滲ませていたものだが、甥ともう一人の寵愛者、息子の三人が絡んだ今回の問題を自身の手で解決する決心をしていた。その母が、なのに暗殺される。相当の手練れだろう暗殺者を寄越せる人物が誰であるのか、考える必要など有りはしない。
 拳を握り、堪えるのは、第一声の意味を知りたいからに他ならなかった。
 それでさ、あいつに一晩中言ったわけ。あんたタナッセに迷惑掛けてばっかだねって。あんたが居たせいで、伯母さん寿命全う出来なかったねって。タナッセに逢いたいーってうるさいせいだって。
 貴様、と玉座に踏み出すタナッセを追い払うようにヴァイルは出入り口を指さした。
 用件、おしまい。押してるからさ、さっさと出てってよ。衛士たちに反逆罪で引っ立てられてあいつ残して死ぬんなら、それもいいんじゃない?
 従弟を殴りたいのが彼女を思ってなら、憤怒に頬を痙攣させながらもきびすを返すのもまた、彼女のためだった。届かないと承知の上で、それでも限界まで塔の上からタナッセに手を伸ばした、愚かなほど真っ直ぐな彼女のためだった。
 どうしようもない愚かさが愛おしい彼女は、一週間ほど寝込んでいる様子だ。担当している医士が塔と医務室をひっきりなしに行き来しており、定時に食事と薬湯が持ち込まれていると報告が届いていた。哀しいことに、一週間ぐらいの不調は最早彼女には当たり前になってしまっている。篭りを終えた直後などしょっちゅうで、一度は落ち着き安堵も出来たのだが、最近はまた宜しくない状態が続いているのだ。命が失われることを懸念するほどに切羽詰まってはいないらしいものの、――もし、彼女が子を宿しでもしたら。彼女の身体は、耐えられるのだろうか。
 せめても伝えてやりたい。
 母の死は確かに在り来たりな言葉しか出てこない強烈さでタナッセを痛めつけた。母も心残りがあって悔しいことこの上ないだろう。しかし、リリアノの、国王であったリリアノの死としては、やはり彼女の一件がなくとも暗殺であったと彼は考えているのだ。
 彼女がヴァイルの囁きにいかな反応をしたのか。一年に満たない付き合いでは難しいものがあったが、きっと、相当に傷ついている。何せタナッセなどより遙かに親しかったヴァイルが傷つけるために選んだ台詞なのだから、深いところに突き刺さったに違いがなかった。
 しかし、従弟は何を意図して呼び出し告げたのだろう。今の彼について分かることはたった一つのことだけだ。真っ当でない方法で人を愛しているという、それだけだ。



 【4】
 触らないでとゆるゆる首を振るのは、微熱程度にまで体調の落ち着いてきた憎らしい女性。寝台の上、ヴァイルに唇をつつかれている彼女は白というより血の気の薄い頬をしている。眠っていた彼女を些か乱暴に覚醒させたせいだろう、貧血を起こしたらしい。先日の追い詰め以降、彼女は生気を薄めている。
 リリアノの死により、監禁状態の寵愛者を助け出す動きは鈍化した。元から彼女は長期的観測、たとえば時代の印持ちの誕生すら視野に入れて手を打ってきていたものだが、それを踏まえても鈍い動きになった。従兄は城での噂より余程出来る人間だとヴァイルは知っていたが、こんな大事を仕切るにはまるで経験が足りていない。人望が、統率力がないなら餌の釣るし方を考えればいい。
 タナッセはまだ不慣れで、更には手駒の動かし方もまるきりなっていなかった。圧倒的に不利な立場で立ち回るには一切合切が足りていないのだ。彼女を救い出すなど夢のまた夢。呼びつけ煽ってやったが、感情だけではどうにもなるまい。
 そう、どうにもなりはしないのだ、いくら想い願おうとも、叶えられないことは山と存在しているのだ。ヴァイルが王になるしかなかったように。誰も永遠に傍にあってはくれなかったように。何もかもを踏みつけるだけの権威を持って、ようやっと一つだけ叶えられた。
 熱のせいで乾燥している彼女の唇を、ただ撫でる。ふっくらしたそれもやはり色が抜けていて、彼女はぱっと見大きな人形のようだ。伏し気味の黒の瞳には、鏡石のようにヴァイルが映り込んでいた。自身の眉尻が下がっている理由など、知りたくもない。
 ヴァイル、と。
 彼を見つめる瞳は囁くように名だけを口にした。

          /*

 全ての事態が遅々として進まない。
 タナッセはどうしてもこみ上げてきてしまう欠伸を噛み締めながら朝食を摂っていた。月が変わる頃、やっと彼女の熱は下がり、一方、母リリアノの死によって崩れかかった体勢を立て直すのには今しばらく掛かりそうだ。六代国王の独裁に反発する貴族たちは、仮にも前国王で万全の警備体制が敷かれていたはずのリリアノが暗殺された事実に戦いていて、説得が難しかった。
 最良は、従弟を説得出来ることなのだが。
 思いはよぎるものの、タナッセからの謁見申請は撥ね付けられる。先日のようにヴァイルから呼び出すこともあったが、言うだけ言って追い返す。話し合いなど望むべくもなかった。彼女を塔から連れ出せたところでこの国の頂点はヴァイルなのだ。可能ならばと考えてしまう。
 免職されたという女性の足取りも、掴めていない。おそらく従弟は女性をやめさせたあと側仕え達の交代時間を入れ替えるなどの指示を怠っては居ないだろうが、他にも何かしら役に立つ情報があるかもしれず、探させているのだが。少なくとも実家には戻っていないようだ。ヴァイルが密かに葬ったと考えられなくもないが、今の彼なら彼女を打ちのめす方法で殺しそうな気もする。
 タナッセは腹の奥底から息を吐き出した。
 こうして手を尽くすのは、使えるものを考えるのは、間違いなく彼女に正しい形で再会するためだ。
 だが、居て欲しかった。
 今、逢いたかった。
 愛していると、伝えられなかった言葉を伝えたかった。

          /*

 愛が欲しいと、彼女は彼であったかつて、口にした。
 どうしても欲しい物はないかと問うた時、何かおそれるような表情で、けれど甘い声音がそう口にした。誰を気に掛けているのかとヴァイルも恐れを感じながら更に問うてみれば、夢のような答えが返ってきて。
 ――ふと、ヴァイルは闇の中目を覚ます。
 懐かしいと形容出来る程度に時間の経った、決して懐かしさという暖かみをもたらさない記憶から、戻ってくる。腕の中には記憶を辿る夢の中で相対していた存在が成長した姿で収まっていた。ただし、こちらに背を向けて、だ。互いに表情の見えない体勢。それはヴァイルが望み、彼女も望んだことである。
 けれど気配は伝わるものだ。彼女の薄い身体が身じろぎし、吐息を零す。骨の在処を感じる小柄が眠たげな声が甘く言う。
 泣いている?
 否定の語が即座に返せず、耳朶を唇で食もうとして――やめる。代わりに彼女を抱く腕に力を込めた。息苦しげなよじりが起きたが、それすら抑えるように抱き寄せた。食の細い身体は、よく不調を訴える身体は、ほとんどの場所が本気で力を入れては折れかねないほど頼りがない。
 眠る前していた行為の最中、彼女は初めて従兄の名を呼ばなかった。ヴァイルの名も。そして、否定すら口にせず。常ならば意思を無視して漏れ出る声を厭って己の指を噛むのにそれもせず。ただただ、与えられる感覚に声を上げた。
 背筋に走ったのは、確かに怖気だったとヴァイルは思う。
 彼女が諦める瞬間を、確かに彼は待っていたのに。
 いつかの問いに、愛が欲しいと彼女は言った。だから取り上げてやって、やめてと言うから夜毎の行為も続けていて、逢いたいと言うから部屋の外へは一歩も出さない。
 ずっと一緒に居る気もないくせに自分の感情を押しつけてきたもう一人のことなど、憎くて堪らなかった。だからヴァイルと同じように諦めを得た彼女に満足を覚えると、ずっと考えていた。
 腕を緩めることは出来ない。
 今夜はもう彼女を抱きたくはないと強く思う感傷を、制御不能な感情はいくらでも踏みにじるのだから。



 【5】

 望まない行為でも、続けていれば出来るものが出来るようだった。
 私は。
 私は、反射的に叫びかけた自分を少し遠くで眺めている。感情のまま露台の外へ飛び出たい私と、妙に落ち着いて受け入れている私。乖離していて酷く気持ちが悪い。
 あとふた月でまた一つ年を取るなと詰まらないことを考えていた時に、突然医士である女はやってきて頭を下げた。告げられた言葉に関して全く心当たりがない訳ではなかったが、勘違いであって欲しくて。でも、現実はそんなに甘くはない。
 二つの乖離の妥協点なのか、私は医士の告知の最後、少しだけ吐き戻す。
 あまり開け放たれない露台へ続く窓が解放され、目障りなほど爽やかな青空が目に映る。饐えた空気が緑や水の清涼さと入れ替わったが、気分はいっそ澱んだ。
 その日の夜にやってきたヴァイルは何故か目を合わせようとしなかった。今なお私は彼を憎んだり嫌ったりは出来ずにいて、けれど、抱かれることや結果として子供が出来たことは、いやで仕方ない。
 未練がましくもタナッセとの露台での約束が思い起こされる。多分、耳に届く。彼の従弟を傷つけて、母親を死なせて、信じたいけれどもう私のことなんかかつてのように嫌っているかもしれないと不安は忍び寄って、なのに、それでも、どうしても、知られたくない。
 私も自然顔を伏せてしまう。ヴァイルが動けず居るなら私が動かなければならないと思うのに。私はずっと、今に至るまで彼を痛めつけてばかり。熱で混濁する意識の中幾度も反省して、ようやく行為の最中口にする言葉たちを胸の奥に押しとどめられるようにはなった。けど、まだ。まだ、それ以上は、難しい。どう喋ればヴァイルを傷つけずに済むか、全然分からない。
 互いに何も出来ないままどれほどの時間あったろうか。結局、先に行動したのはヴァイルだった。寝台の上に座った彼は、同じく寝台で上半身を起こした姿勢の私に顔を向ける。
 どうしよう。
 眉根が寄り、眉尻は下がって、唇はわなないていた。私は自身の目が丸くなる感覚を覚える。表情が違っていたなら、怒れもしたのに。
 どうしよう、――――嬉しいんだ、俺。でも、ごめんって、そうも思ってる。
 頭が思い切り殴られる錯覚を得る。
 言葉という言葉が喉の辺りで凝って出てこず。
 うあ、と。
 単語にすらならない音の連なりと呼気が、何度も漏れた。どうして。怒りはなく、哀しさもなく、もちろん喜びやヴァイルのように嬉しさなんか感じてもいない。
 なんで、今更。
 どうして今更ごめんなんて言うのか。
 大体、謝罪すべきは私じゃないのか。
 いやそもそも。
 なんで、嫌いな相手との子供が出来たことを、嬉しいなんて言うのか。
 莫迦、と。
 私は呟いていた。
 何に対してか、分からない。ヴァイルのことも全然分からない。タナッセにまた会えるかどうかも、分からない。
 ただ、愚鈍な私にだって、分かっていることが少しはあった。
 私が居なければ母さんは死ななかったし、ヴァイルも監禁なんてやらかさず済んだし、露台へ出してくれた彼女は追い出されなかったし、タナッセの母親も殺されず済んだ。私はこれから母親になるらしいが、今度はその子を駄目にするのかもしれない。
 でも、死ねない。嬉しいと苦しげに笑ったヴァイルを、傷つけることになるから。こんなに今、死にたくて堪らないのに、私は死ねない。
 投げやりな気持ちが良くなかったのだろう。発覚から大して間もない雨の日の朝、産みの繋がりは不意にかき消えてしまった。結局、また私はヴァイルに傷を増やしたんだなと、そう思う。
 産みの繋がりは消えたけれど体調は優れないまま黒の月を終え、新しい年がやってきて、十七歳に私はなる。タナッセと初めて会った時の彼の年齢と、一緒。気分が華やいでしまう自分が情けなくて腹が立った。



 【6】

 それを耳にした時感じたのは、深い諦念だ。
 来るべき時が来てしまったとタナッセは思い、だから彼女の体力的にも、従弟への嫉妬心からも、子が流れたと知って安堵の念が胸中に広がっていった。命が失われたというのに不謹慎だと不快の念を抱きながらも、良かったと思ってしまうのを止められなかった。
 ただ、すぐに心配に変わる。床を離れられない状態が続いているらしいと聞けば、以前の危惧が当たってしまったのかと胃が痛んで仕方ない。
 一方で朗報ももたらされた。彼女を露台へいざなった初老の女が発見されたのである。やはり始末されたものと考えていた分、心は浮き立ってしまう。こちら方の貴族や買収している衛士を使い、女を城へ連れてこさせた。タナッセ自身が出向かないのは勘のいいヴァイルが不意の外出に何を感じ、妨害工作を行うか判じ得なかったためである。
 件の従弟は時折彼を呼び出しては言い捨てるだけを繰り返している。
 最近やけに直截な語句を用いて品のない話をするようになってきた。反応を見て愉しんでいる気も、苛立ちを感じている気もするが、何故なのか。理由を探ろうにも会話の内容を思い出せば冷静でなどいられるわけもなく、真意は掴めないままでいる。
 なんにせよ今は、やけに真っ直ぐな目を持つ女に話を訊かねばならない。
 長く所在不明だった女は席に着くと早速自分から話し始めた。いっそのこと魔のものの力でも借りられないかと方々を這いずり回っていた、とさばけた調子で言い出した老女に思わず笑ってしまったのは、タナッセも似たような思いを感じたからだ。以前知り合った魔に属する人間は、彼の人脈では今も居所すら掴めていないのだが。
 女も笑う。
 だが、意味は異なっていた。
 タナッセ様、わたくし一人ではこの程度です。
 言って微苦笑を強める。そして、吐息した。
 わたくし一人では――本来、あの方を露台へ連れ出すことすら、ままなりません。ままならなかったのですよ。そして、同じ思いの者が手を尽くして、あの程度。
 目を見開くタナッセに首を傾げ、まだまだ甘いですねぇ、誰も彼も、と、女は疲れた様子で茶を一口含んだ。皺の刻まれた目元を一層細め、首を横に振った。

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 話しかけられた。
 私を夜着に着替えさせている彼女が不意に話しかけてきた。
 沐浴や着替えは閉じ込められてからは自分でさせてもらえず、一度拒否したが侍従たちはヴァイルに怒られてしまうと震えたのでもう何も言えなくなって、今に至る。とはいえ十四年ただの田舎者だった身には順応しづらい。仕方なく考え事をして気を反らしていた。
 初め、何が起きたのと耳を疑って何も返せず、けど彼女がもう一度声を掛けてきたから空耳の類じゃないんだと首を傾げる。私を露台に連れ出してくれた彼女が居なくなって、話しかけてくる人は居なくなったんだなと思っていたのに。
 ここから出たくはないのかと、多分同い年くらいの短髪の彼女は私の手を取って苦しげな顔をしている。意味のないことを問うてくるなと心は思い、口から出たのは真逆の一言。
 タナッセに会いたい、と。
 口にしてしまったのは反射ながらまずかった。久しぶりに舌先に乗せた名前が全身の力を奪ってしまい、私は気付けば床にうずくまっている。立とうにも、腕も足も力が入らない。なのに、手が絨毯を掻きむしっていて。
 それが駄目押しだった気がする。ぐずぐずな中でも持ちこたえようと突っ張っていたものたち全部崩れちゃったな、と他人事みたいに感じる自分を無視するように、喉からは弱音ばかりが吐き出されていく。もうやだとか、もう無理とか、意味のない言葉ばかり。
 同じようにしゃがんだ彼女の手指に力が籠もって少し痛む。
 国王のことは、どう思っていらっしゃるのですか。
 力の強さからは想像もつかない静かな問いがある。私は、彼女の手を握り替えした。自分自身、既に何を言っているかも不明な呟きを止めて、考えて、そして。

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 続きなど聞きたくもない。
 ヴァイルは周囲の音が耳に入っていない女たちのため、扉を殴りつけた。
 今夜は来ないと踏んでいたのだろう、短髪の侍従は青い顔をして彼の方を見上げてくる。
 彼女は。
 うずくまって俯いた彼女は、遅れて顔を上げた。
 言ってやりたいことはいくらでもあって、しかし、絶句するしかない。ヴァイルの無言を疑問してか、侍従は彼女へ顔を戻す。言葉を失ったらしい気配があった。
 誰も何も言わない沈黙は、ヴァイルが破るしかない。彼自身無様と思うかすれ声で、彼女に、座ったまま手を握られたままの彼女に、言う。
 なんで。なんでだよ。なんであんた、泣いてるんだよ。
 彼女は小首を傾げる。忙しく瞬き、何を言ってるのかと眉根を寄せた。ヴァイルを移す黒の瞳は潤み、涙はとめどなく頬やおとがいを伝っているというのに自分が泣いていると自覚していないのか。不可解な言動であるが演技の色は感じられず、むしろ彼の方が戸惑った。
 彼女はヴァイルの名を疑問符付きで呼ぶ。
 ヴァイルは何事か言葉にしようと口を開き、だが、叶わない。代わりというように彼女が語り出した。泣いているせいかつたない調子で。懸命とも形容出来るその姿に、彼は唇を噛み締めた。



 【7】

 タナッセは回廊の中程で嘆息した。彼女に入れ込んでいたという初老の女の話は興味深くこそあったが、彼女を解放するために使えそうなものは何もなく、時間を掛けて探した労力に見合わない結果に終わっている。
 立ち止まって真昼の中庭を眺める彼に、控えめな呼びかけがあった。声の方を見やれば、見慣れてしまった顔が立っている。彼は再びの嘆息が漏らす。見慣れてしまった理由は至極単純。立っている人間は、従弟が彼を呼びつける際に決まって使う年配の侍従なのだ。故にまたかといっそ呆れすら覚えて鼻で嗤うが、年配の男はほとんど定型文と化した言葉を告げ、しかし、最後に一礼をしながら付け加えた。
 とうとう自分は狂ったのかと控えていたモルの顔を見たが、どうも聞き間違いではないらしい。
 男は確かに口にしたのだ。
 彼女の部屋に来るように、と。
 ヴァイルの思考はある時期から一つの理解も出来なかったが、今回も思惑はまるで読めない。ここ最近行われる彼女についての品のない話を踏まえるとまさか最中を見せびらかす気とすら考えられたが、どのみち国王の命令を退けることなど不可能である。三度目になる深いふかい嘆息ののち、タナッセは重い足を動かし始めた。
 重しと拘束を為されたような足は、彼女の部屋の扉まであと数歩の場所でとうとう歩みを止めてしまう。だが、緊張に脈動を強め早める鼓動を抱える彼の行動などとうに見透かしていたように、内側から扉は開いた。誰も客人を迎える必要のない殺風景な応接室の向こう、彼女の私室への扉は開け放たれており、応接室の扉を開けた年若い侍従は頭を一つ下げると控えの間へ戻っていく。
 応接室の先、彼女の部屋の奥には一人の青年の姿がある。長めの髪を幾筋かにまとめた彼は、ヴァイルは、穏やかとも感じられる静かさで言葉を掛けてきた。
 いつまでそこ突っ立ってんの、タナッセ。今日はさ、そういう気分じゃないから意地の悪いことしないよ、俺。
 現状の私と貴様の関係を考えろ、信用出来るか。
 言い返せば乾いた笑いが肯いた。
 そりゃそうだよね。うん、俺がタナッセでも同じこときっと言う。でも、――会わせてあげるよ、あんたらを。
 そしてヴァイルはちょうどタナッセの死角になる場所へ目をやると、眉根を寄せながらも唇で淡く弧を描く。疑問で眉間に皺を寄せるタナッセへ彼は顔を向け直し、伏し気味の瞳でこう言った。
 あんたにこいつ、返す。目障りだから二人で領地にでも引っ込めば。
 タナッセは、足を踏み出す。大股で、早足で、開け放たれた場所へ踏み入る。
 疑いを持って掛かるべきだ。理性は告げる。
 理性の忠告より早く、感情は空白のまま、なのに身体が動き出していた。顔をしかめる従弟も意識からは遠くにあり、彼は先程までの死角、寝台に歩み寄る。
 白の寝台に、果たして彼女は眠っていた。
 光を弾き輝く黒の長い髪、不健康なほどの白い肌。頬も掛布から出た手指もほっそりしている。身体は横向きで、掛布は自身を抱えるように丸めているようなふくらみ方だ。表情に険はない。ふっくらした薄紅の唇はわずかに開いていて、時折何事か囁くように動く。
 タナッセは額に手を伸ばしたが熱を出している様子はなく、病的な白さに息苦しさはあったものの、その点では安心出来た。先刻までの極度の緊張と、一気に訪れたあらゆる安堵が彼に手を伸ばさせる。深い眠りに落ちている彼女の身体をかき抱く。腕を回せば肉付きの薄さがより切実に感じ取れて、抱き締める力は強くなり、喉奥からはくぐもった声が漏れ出てしまう。かつての記憶と異なりあたたかいことだけが救いだ。
 愛おしいと、甘酸っぱい彼女の香りで肺腑を満たしながら感情を噛み締めた。彼女という存在が愛しくて、大切にしたくて、けれど腕の力はまた強まる。
 ひとしきり華奢な彼女を腕に抱いたタナッセは、ふと違和を覚えた。長く不自然な体勢であるにも関わらず彼女は目覚めない。身を離して頬を撫で、柔らかと温かさを感じながら名を呼んだ。
 薬、飲ませてる。
 背後から掛かった声は冷水としてタナッセの全身を打ち付けたが、振り返れば苦々しげな顔の従弟は誤解するなと半眼を向けてくる。
 ただの睡眠薬だよ。今そいつ、……駄目になりかけてるから、言っちゃいそうなんだよね、莫迦なこと。というか言われたんだけど、俺。
 見えない空を仰ぎ、ヴァイルは耳に貼り付いているのだろう彼女の言葉を、声の響き以外はそのまま口にする。
 ――――もう諦めるから、諦めたから、ヴァイルの傍にずっと一生居るから。だからタナッセに伝えて。今まで迷惑掛けてごめんねって伝えて。もうあのひとは、城から解放してあげて。全部ぜんぶ、諦めるから。
 似てて似てなくて、だから腹立つなあほんと、と最後にぼやいた彼はまた黙った。黙ったまま、ヴァイルは部屋を出て行く。おいと呼び止める声に苛立ちの隠しきれない顔を振り向かせ、なるべく早く、私の気が変わらないうちに城から出て行け、と国王としての口調が吐き捨てる。言われるまでもないと同様の冷たさで返せば、歩き出した彼は、最早振り返ることはなかった。元々どうしようもなくなっていた関係は彼女を挟んで決定的な破綻を迎え、故にこれは互いに限界を超えた距離感だ。今以上に言葉を交わしても、出てくるのは痛罵か拳でしかなかろう。彼の思考の変遷はまるで窺い知れないが、タナッセももう何も言わず従弟の退出を見届けて、再び腕の中の細身に顔を戻す。
 眠っている相手に勝手に口づけるなど卑怯だと承知の上で、タナッセはようやく触れることが叶った女性の花唇に自身の唇を重ね合わせた。こどもだった彼女に無理矢理口づけした過去があるが、地下湖での感触と同じに甘さを覚えるほどに柔らかい。味わうように角度を変えて、愛していると名を囁きながら幾度も口づける。
 全く、迷惑とはなんなのか。タナッセを赦した時にも思ったが、彼女は時々途方もなく愚かな人間になるのだから頭が痛い。苦労がなかったなど、母の死が大したことはないなど、口が裂けても言えたものではないが、だからといって彼女を救い出さないなどという選択肢は彼に有りはしないのだ。
 あるのは自分の至らなさへの怒り。たすけてと彼女は言い、必ず出すと肯いたのに、待っていると口にしたのに、諦めるなどと言い放ってしまったという心に負ってしまった傷を思い、自分自身に腹が立った。大体今こうして彼女を抱き締めていられるのも、これから共にある生活が許されたのも、タナッセが救い出すことに成功したためではないのだ。ヴァイルが手放したから叶ったのだ。
 目を覚ました彼女は、従弟の言葉が真実ならばあるいはタナッセを拒絶するのかもしれない。だが、口にされる拒絶や否定を受け入れる気など絶対になかった。諦める必要などとうになくなったのだと、何をしてでも彼女を説得する。昔、印持ちに対して覚えた疎外感を、劣等感を――諦めを、癒したのは彼女に他ならない。ならば、今度は彼が諦めを得てしまった彼女に手を差し伸べるのだ。
 何度目になるか分からない口づけに、ん、と吐息混じりの彼女の声が上がり、続いて身を浅くよじる動きが起きる。その吐息すら貪って、その動きすら幸せで、ようやく手に入れた決して手放せないだろう彼女の目覚めをタナッセは待った。










 【0】

 よく晴れた日の中庭に、一組の男女の姿がある。
 差し込む陽光は木々の葉の隙間から降り注いでおり、優しくも十二分にあたたかい。木の根元に座り込んだ女性は膝をつき彼女と視線を合わせてくる青年を、けれど上目で見つめている。
 ほんとうにいいのかと問う小さく細い声に、青年――タナッセはなるべく柔和になるよう笑顔を作って、緊張のためか冷たい指先を包み込む。自身の笑顔がどれほど彼女にとって優しく映るか不安を覚えながら、肯定する。彼女は彼にとって取るに足らない事実ばかり気に掛けて自分は駄目だと身を引こうとするのだが、ヴァイルの元から取り戻して以降、タナッセは諦めずに毎日まいにち彼女を説得していた。大体、彼女が駄目と自身を否定に掛かるのは、発言のどこを取ってもタナッセかヴァイルを慮ってのことだ。つまり、タナッセへの愛が消えたものではない。引く理由が、ない。
 全くほとんど真逆の状況だなと内心苦笑しながら、潤む伏し気味の、今は上目がちな黒目に視線を合わせる。可哀想なほど白い頬に手を伸ばす。
 引く理由は欠片もないが、ヴァイルをして駄目になりかけていると形容した彼女の心を癒すのは難儀なことだろう。急ごうとはだから考えない。彼女が自然にまた笑えるようになるまで、タナッセはいくらでも待つ気でいる。眠る彼女の目覚めを待った日のように。
 頬に触れられた彼女は甘い声音でタナッセの名を呼ぶ。どうしたと尋ねると、あどけなく躊躇いがちな答えが返る。
 もう少しだけ、手を握っていて欲しい。
 そんなことかと笑ってやれば、彼女は微かにはにかんだ。心地よい程度の風に揺れる木漏れ日が微笑みに光を零し、儚げな容姿と相まって抱き締めたいほど可愛らしかった。










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何度でも言いたい!
ヴァイル憎悪BとCは、特にBは滾るのだと!
(単体複合問わず)

テキスト量としては大体「印象~」ぐらいなのですが、
内容的にも分けるようなブツではないかなと一発で。
某煉瓦本作者ではないがキリどころが分からなかったとも言う。